浅沼稲次郎の一面を知る文章です。
自治会町内会情報誌「まち・むら」127号(2014年9月発行・季刊誌)掲載の論文、「都市の共同居住」(大内田鶴子・江戸川大学社会学部教授)を
読んでいると「町会長浅沼稲次郎」の項がありました。
掲載の文書から転記「昭和4年頃から、清砂通りアパートの白河4丁目側10号館1階に、
衆議院議員(後の日本社会党書記長・委員長)の浅沼稲次郎が、部屋を借りて住んでいた。
保証人は賀川豊彦であったそうだ。昭和8年に東京市議に当選し、昭和11年に衆議院議員になった。
昭和16年ごろ無産者政党、社会大衆党を解党した後には「白河町内会」の自治会長になっている。
浅沼は、戦後社会党委員長(昭和35年)になった後も、日比谷公会堂で右翼少年の凶刃に倒れるまで、
この地に住み続けた。
なお、選挙区は文京区であり、「御殿の鳩山、アパートの浅沼」と言われたそうである(沢木耕太郎、1978年)。
清砂通りアパート住民は、敗戦直前の、1945年5月に生活用品不足に対応するため、
浅沼の勧めにより、生活協同組合を結成している。
<省略>
浅沼稲次郎は、東京市政調査会が事務局となって、
1947年(昭和22年)2月12日に発足した町会問題対策協議会の委員になっている。
GHQは占領統治政策として、町内会・自治会を廃止しましたが、
それに先立ち東京とは、廃止される町内会に代わる新しい組織の性格や事業、
その具現化の方法などを討議していた。
東京都は1938(昭和13年)から町会整備を継続しており、
この時重要な役割をはたした都庁の地方事務官を再び会議に参加させて、
町内会廃止後の近隣組織の在り方について検討し始めた。
浅沼はその会議に町会代表委員として加わっており、
「新生活共同体の結成」という構想案を、
町内会に代わる新たなモデルとして提言を試みたメンバーの一人である。
その構想内容は、生活協同組合との関係を示唆するものとなっている。
なお、この提言は活かされずに葬られた。
自治会町内会情報誌「まち・むら」127号(2014年9月発行・季刊誌)掲載の論文、「都市の共同居住」(大内田鶴子・江戸川大学社会学部教授)を
読んでいると「町会長浅沼稲次郎」の項がありました。
掲載の文書から転記「昭和4年頃から、清砂通りアパートの白河4丁目側10号館1階に、
衆議院議員(後の日本社会党書記長・委員長)の浅沼稲次郎が、部屋を借りて住んでいた。
保証人は賀川豊彦であったそうだ。昭和8年に東京市議に当選し、昭和11年に衆議院議員になった。
昭和16年ごろ無産者政党、社会大衆党を解党した後には「白河町内会」の自治会長になっている。
浅沼は、戦後社会党委員長(昭和35年)になった後も、日比谷公会堂で右翼少年の凶刃に倒れるまで、
この地に住み続けた。
なお、選挙区は文京区であり、「御殿の鳩山、アパートの浅沼」と言われたそうである(沢木耕太郎、1978年)。
清砂通りアパート住民は、敗戦直前の、1945年5月に生活用品不足に対応するため、
浅沼の勧めにより、生活協同組合を結成している。
<省略>
浅沼稲次郎は、東京市政調査会が事務局となって、
1947年(昭和22年)2月12日に発足した町会問題対策協議会の委員になっている。
GHQは占領統治政策として、町内会・自治会を廃止しましたが、
それに先立ち東京とは、廃止される町内会に代わる新しい組織の性格や事業、
その具現化の方法などを討議していた。
東京都は1938(昭和13年)から町会整備を継続しており、
この時重要な役割をはたした都庁の地方事務官を再び会議に参加させて、
町内会廃止後の近隣組織の在り方について検討し始めた。
浅沼はその会議に町会代表委員として加わっており、
「新生活共同体の結成」という構想案を、
町内会に代わる新たなモデルとして提言を試みたメンバーの一人である。
その構想内容は、生活協同組合との関係を示唆するものとなっている。
なお、この提言は活かされずに葬られた。