先日の勉強会の資料に、「埼玉県の陸軍熊谷飛行学校で、海上の漁船を敵艦に見立てる突入訓練を繰り返した。」とあったので調べてみました。
陸軍熊谷飛行学校は、埼玉県大里郡三尻村(現在の熊谷市)に置かれていました。(現在は「航空自衛隊熊谷基地」となっています。)
各地に練習場があった中に、福島第一原発のある地区にも練習場があったブログを発見しました。
ブログ「僕の知らなかった原子力発電その36」から少し長いですが引用します。
福島第一原発が建つ長者原といわれる地区は、双葉町と大熊町にまたがる太平洋に面した高さ約30mの台地である。第2次世界大戦が始まる少し前、長者原は陸軍熊谷飛行隊の練習場として約300ヘクタール接収された。飛行場の練習機が、すぐ目の前の太平洋に向かって離発進する練習が繰り返された。だが、敗戦直前、米軍艦載機の襲撃を受けて飛行場は全滅した。
終戦後は、昭和23年(1948年)頃まで、仙台の財務局の管理となった。その後、元の地権者の農民たちに払い下げられたが、元飛行場の約三分の一にあたる99万平方メートルの払い下げを受けたのは、国土計画興業の堤康次郎(西武グループ創始者)だった。
大熊町夫沢二区行政区長の佐藤久雄はこう回想している。
<終戦を迎え、数年間は荒地だったが、衆議院議長などを歴任した堤康次郎さんが飛行場跡地を買収した。当時、地元住民は1反1000円で国から払い下げを受けた。堤さんは塩田事業を始めたが、大規模な事業だった。塩が貴重な時代で、双葉郡の沿岸部で暮らす住民は塩精製用の特殊な釜を使用し、自分たちで塩を作っていた。私が生まれた長者原地区でも、住民が共同で製塩作業に従事していたことを覚えているが、製塩作業所のご飯はうまかった。塩田事業も行き詰まり、現在の発電所付近はまた荒地になった>。
『福島第一原子力発電所1号機運転開始30周年記念文集』に、東電職員の佐伯正治が、こんな話を明かしている。
<用地買収は大熊町長の陣頭指揮で町議会、町当局、有力者を総動員された結果、大熊町内地権者の了解は短期間に終了した。一方、北側にあある国土興業(西武系)所有の旧塩田跡地は堤康次郎氏の反対で了解が得られなかったが、氏が亡くなられてしばらくして用地が解決した>
この文章からは、耳よりな情報を得た堤康次郎のいわゆる‘ゴネ得‘がうかがわれる。
堤は、3万円で手に入れたこの土地を、結局、東京電力に3億円で売った。堤康次郎所有の土地の買収が終わったのは、昭和39年(1964年)11月27日だった。その3日後、東電は原子力発電所建設計画を発表した。実際に建設が始まったのは、昭和41年(1966年)度からだった。